HOME > 日刊競馬で振り返るGI > 1986年菊花賞
 
菊花賞・ゴール前 題字
GI復刻版 1986年11月09日
第47回菊花賞
馬柱をクリックすると別ウインドウで開き大きな馬柱を見ることができます。
馬柱 ヒーロー不在の年もある
 ゾロ目とメジロデュレン


 テレビのモニターに映るのはカメラマンと編集の手を経た“作り物”であり、事実の断片ではあっても真実ではない。人が歴史から学ぶことはほんのわずかなことだけ。なぜなら経験より優れた教科書がないからである。
 経験とは行為を通じて得た蓄積なのだろうが、同時代の空気を吸い、同時代の皮膚感覚を持ったものにしか共有が難しい。「去るもの日々に疎し」。水の流れのように記憶は遠く流れていく。地球には次代の主役たちが出番を待っているからそれでいい。ただ、2005年秋。三冠目指すディープインパクトの喧騒を目の当たりにすると、ふと、菊花賞と有馬記念を勝ちながら、あまりに地味な存在ゆえに“忘れられた馬”メジロデュレンと一人の男を振り返ってみたくなった。
 なぜなら競馬にはヒーローのいない年もある。今年のディープインパクト(池江泰郎厩舎)のようにタイトルを独占する馬が出現する時代はスポーツとしての競馬がファンを魅了し、低レベルの年には賭けとして競馬が盛り上がる。その意味では1986年クラシック世代は穴党ファンの年だった。

●1番人気は生涯に2度だけ
 1985年8月31日、函館芝1200がメジロデュレンのデビュー戦(3着)だった。菊花賞時が444キロと男馬にしては小柄な馬だったが、パーツに窮屈なところのない体型で、6年後に菊花賞を勝ったライスシャワー(菊花賞時438キロ)と同じようなイメージだろうか。
 新馬2戦後休養し、年が明けて同年代の馬がクラシックを賑わす5月10日に未勝利を脱し、6月28日のなでしこ賞で2勝目。函館の樽前山特別を勝ったあたりでようやくエンジンがかかり、10月11日の嵐山特別(京都・3000)をクビ差で制して菊への出走を決めたのである。
 1986年の菊花賞はミスターシービー、シンボリルドルフ、ミホシンザンと続いた前3年と違い主役不在の“乱菊”で、フルゲート21頭。午後からの雨は本降り。加えて晩秋の夕方である。どの馬にもチャンスがあるだけに、21頭が薄暗い中を一団のスローペースで進む。直線入り口ではダービー馬ダイナガリバーが先頭。6番人気のメジロデュレンはその直後の三番手。直線は2頭の競り合いで、メジロデュレンが1/2馬身出たところがゴールだった。《枠連6-6=2890円》
 しかし、この秋はメジロデュレンの菊花賞制覇より、一週間前に同期生メジロラモーヌが史上初の牝馬三冠馬になったことが競馬サークルでは大きな話題であり、デュレンの菊花は牝馬の偉業に花を添えた扱いしか受けなかったのである。

●今は昔の東高西低時代
 菊花賞で2着だったダイナガリバーが暮れの有馬記念で上の世代を破ったのだからメジロデュレンの力量推して知るべし、のはずだが、なにしろ引退するまでの全6勝の最大着差が3/4馬身。1番人気が条件戦のたった2度だけが示すように、いつもギリギリ先着する地味な勝ちっぷりで、強さを感じさせない馬だった。菊花賞馬となっても、池江泰郎調教師の初クラシック出走だったことや、関西馬の三冠レース13連敗を阻止したことが話題になったように、関東馬でなければ歯牙にもかけられない時代だったのである。
 メジロデュレンの1987年は日経新春杯3着でスタートしたものの、脚部不安で9ヵ月休養。復帰後カシオペアS5着、鳴尾記念10着、10番人気の有馬記念を制して、日本一の座についたのである。
 ただ、多くのファンも同じだろうが、この有馬記念、メジロデュレンのレース振りの記憶がないのである。ダービー馬メリーナイスから買った本線馬券がスタート二歩目の落馬で紙屑となり、抑え馬券のサクラスターオーが四角手前で骨折中止。眩暈を覚えながら私の双眼鏡はサクラスターオーを見続けていたからだ。《枠連4-4=16300円》
 有馬記念で頂点に立ったメジロデュレンだが、人々の記憶の中には、勝ったメジロデュレンのことよりも、「ひどい有馬記念だった」という思いの強いレースだった。かくしてデュレンは相変わらず年の改まった1988年の7戦も1番人気になることも、1着になることもなく引退したのである。種牡馬としても父子三代天皇賞制覇で話題を集めた4歳下の弟メジロマックイーン(菊花賞・天皇賞春2度。重賞9勝)が引退すると“日陰”に追いやられたのである。

有馬記念・ゴール前 ●忘れられない男たちがいる
「不幸なのは死んだ女ではなく、忘れられた女だ」
 マリーローランサンは書いている。
 たしかに多くの人たちの記憶からメジロデュレンは抜け落ちたかもしれない。しかし、私にとって、あの男の記憶はメジロデュレンとともにある。

「うめさん…やりました…10万…」。
 1986年11月9日の夜、囁くような声の電話である。受話器に耳を近づけて聞き取ろうとするや否や
「ロクロクいっぽ〜ん!」
大音量の叫びに思わず受話器を放り投げそうになった。岩さんからの電話だった。
 岩さんは私の学生時代からの友だちと同じ商店街の遊び仲間だった。大学の先輩で、黙っていれば人品卑しからぬ紳士だが…
「趣味? お花に風鈴、チャリンコにおンまさんかな」。直訳すると花札、チンチロリン、競輪、競馬となる。
「まあ、おンまさんが一番楽でいいやね」
 私の友だちは中国文化研究=麻雀が一番だが、岩さんに言わせると「あんなかったるいもんができるか!」となる。たしかにいつ注文があるか分からない岩さんの商売には人数固定の麻雀は馴染まなかったのだろう。
 このインテリ風紳士が博打になると一転、目つきまで変わってしまい、口癖の「一天地六の男の勝負」「勝負は運否天賦」を連発する。このテの好事家(スキモノ)はケンすることがない。種目を選ばずバンたび手を出し、そのうえ勝負弱いのは通り相場である。
「オレみたいによぉ、狙い馬がいるときだけ勝負すれば儲かるんだ」と言われれば、
「なんだ、おめぇは子供を作るときだけスルのか。いつだって女の尻を追い掛け回しているじゃねぇか」の反撃である。

●ゾロ目の岩さん
 1987年12月27日の夜にはひと言付け加えた電話があった。
「メジロデュレンが来るときは…ゾロ目なんだよねぇ…やりました…10万…」
「ヨンヨンいっぽ〜ん! 1630ま〜ん!」

 中山競馬場でのショックも覚めやらず、心の準備のない私が受話器を放り投げそうになったのはいうまでもない。
 かくして岩さんは「ゾロ目の岩さん」と呼ばれるようになったのである。ただし、商店街の仲間たちは岩さんが1630万円を手にしても冷笑しているのである。

「岩さんはよぉ、もう博打はやりませんて、2ヵ月前にお袋に土下座して、2000万円ほど穴を埋めたんだ」
「一人っ子のせいか40ズラ下げてお袋に頭があがらねぇ」
「アイツが泣きついたのは3回目。お袋はナ、○○鉄道のオーナー一族で大金持ちなのさ」
「だけどよぉ、岩にはシンショウを渡さない」
「よく分かってるよぉ、正解だね」

 私が岩さんと会うのは年に2〜3回。商店街の競馬好き御一行がそろう正月の金杯と、商店街が休みの月曜日のチャリンコ場でだった。トータルでは20回も会ったことはないが、電話魔の岩さんからの報告で、ツルんでいる商店街の連中より岩さんのことは知っていたかもしれない。
 やがて高度経済成長期が過ぎ、商店街はスーパーや量販店に押されて1人欠け2人欠け…お花や風鈴をやる勢いも失せたが、経営学部出身(ほとんど無関係だと思うが)の岩さんの店は繁盛していること。奥さんの目を盗んではおンまさんにカイバを与え続けたことを。
 馬券でヤラれるたびに「お袋さえ死ねば財産はオレのもの」と言っていた岩さん。そのお袋が昨年94歳で亡くなった。先月岩さんの13回忌に仲間たちが集まり「メジロデュレンの菊花賞と有馬記念。あのころが華だったよなぁ〜」と岩さんを偲んで飲んだそうだ。岩さんの手にする予定だった財産は、奥さんから、1代スキップして息子に渡ることになった。私の友人が仕込んだ岩さんの息子のおンまさん好きは、どうやら親父譲りらしい。

[梅沢 直]

☆第47回菊花賞 優勝馬☆
メジロデュレン 1983.5.1生 牡・鹿毛
フィディオン
1972 鹿毛
Djakao
1966 鹿毛
Tenerko
Diagonale
Thessalie
1963 鹿毛
Sicambre
La Tournelle
メジロオーロラ
1978 栗毛
リマンド
1964 黒鹿毛
Alcide
Admonish
メジロアイリス
1964 黒鹿毛
ヒンドスタン
アサマユリ
 
 



馬主………メジロ商事(株)
生産牧場…浦河・吉田 堅
調教師……栗東・池江 泰郎

通算成績 21戦6勝[6.2.4.9]
主な勝ち鞍 菊花賞(1986年)
有馬記念(1987年)

受賞歴 特になし

全成績はこちら


1986年11月9日
第47回菊花賞(G I) 京都・芝3000m(外)・良
[6]13メジロデュレン牡457村本 善之3.09.2
[6]14ダイナガリバー牡457増沢 末夫1/2
[5]11ラグビーボール牡457河内 洋1.1/4
 上がり 49秒2−37秒0
単勝 1130円  複勝 340円 310円 160円
枠番連複 6−6 2890円    




 株式会社日刊競馬新聞社 東京都品川区大崎1-10-1