HOME > 日刊競馬で振り返るGI > 1975年テスコガビー
 
オークス・直線先頭 題字
1975年5月18日
第36回優駿牝馬
馬柱をクリックすると別ウインドウで開き大きな馬柱を見ることができます。
馬柱 桜花賞、オークス、その命まで
 一気に駆け抜けたテスコガビー


●仲住芳師の葛藤
 オークストライアル


 1975年4月24日(水曜日)。トラックマンと編集の二足のわらじを履いていた私は桜花賞馬テスコガビーが4歳牝馬特別を使うかどうか、想定をはっきりさせるため仲住芳厩舎を取材していた。現在のように木曜出馬などない早刷り競争の時代には、大本命馬が出走するかしないかは紙面作りに大いに影響したからだ。
 当時、東京では古山厩舎と仲住芳厩舎がノーマークの馬でしばしば万馬券を出し、トラックマン泣かせの“穴厩舎”だった。そこで目的意識的に仲住芳厩舎を密着取材するようになったのである。すぐ近くに住んでいたこともあり、休日まで顔を出す私を仲住芳師は信用してくれ、やがて担当厩務員まで「オレの馬をテキはなんて言ってた?」と私に聞きにくる関係になっていたのだ。
「先生、ガビーはどうするの?」
「オレはこれだけの馬を中途半端な状態で使いたくないんだ」
雑談中に馬主さんが姿を現した。
「悪いけどちょっと外してくれ。あとで説明するから」
 話しを終えた師の説明では
「どうしても馬主さんが使ってくれと言うんだ。今の状態ではまず勝てない。しかし、トライアルを叩けば万全で本番に臨めることも確かだし…。今回のガビーはいらないが、その代わりトウホーパールは連を外さない。あとはうまく書いておいてくれ」。

●足で稼いだ馬券
 これが業者の役得


 古い新聞を探し出し、4歳牝馬特別(オークストライアル)のコラムと厩舎のコメントを読んで苦笑いしてしまった。ファンにはガビーではなく、違う馬を買うように薦めており、しかも、「人気はアチラ、お金はコチラ」が口癖で、自分の馬が人気になることを好まなかった師の意向をちゃんと汲みながら、予想は当たるようにしてあるからだ。
 ちなみに、4歳牝馬特別は1着トウホーパール、2着カバリダナーで枠連8−8=3810円。レースや成績がすべての書斎派には獲れない、足で稼いだ会心の馬券だった。私の情報を信じた同僚たちは一瞬だけ豊かになったことはいうまでもない。(4歳牝馬特別のレース柱)

●テスコガビーに◎なし
 日刊競馬史に残る汚点


 では、トライアルの負けは想定内の出来事で、オークスは万全のはずのテスコガビーがなぜ◎ではなかったのか?
 まだこの当時の日刊競馬は同業10数社の中で、下から数える弱小新聞だった。総力戦では太刀打ちできず、企画力や穴予想で一転突破のゲリラ戦を展開していたのだ。予想者の穴狙いは歓迎にしても、断然1番人気のテスコガビーに一つも◎がなかったとは…。
 穴予想とは「強い馬の20%の負ける要素をひねり出し、人気薄の10%の可能性を見出す」こと。針の穴に糸を通すような行為だが、当てたときの嬉しさは格別なのである。それにしても、性格の違う6人の予想者がいて、桜花賞を大差でちぎった馬に◎が一つもないのは、編集者の目からすれば大失態である。
 ちなみに編集者にとって個々の人間の当たり外れは関係ない。◎○の模様を見ただけで、そのレースの性格が的確に表現されているかどうかが重要なのだ。その意味から言えば1975年のオークスこそ日刊競馬史上最大の汚点? だったかもしれない。いま、その失敗がなぜ起きたのか、30年前の裏事情を記しておくことにしよう。

オークス・ゴール前 ●いざ、オークスへ
 嶋田功の声は神の声


1972年タケフブキ(3番人気)
1973年ナスノチグサ(2番人気)
1974年トウコウエルザ(9番人気)

 オークス3連勝。この間1973年タケホープでダービーをも制している嶋田功は、東京2400mのスペシャリストと呼ばれていたのである。しかし、1975年のオークスには嶋田功が参戦していない、3月21日中山1Rのアラブ、ギョクセンジで落馬。左関節内筋断裂で入院していたのである。そこで「嶋田功のオークスインタビュー」の方針を決めたのだ。
 当時、北海道、福島、新潟ではメインレースしか発売していなかったため、メインレースだけで4ページの「日刊競馬場外版」を発行していたのである。その中の企画で嶋田功は「乗りたい馬はカバリダナー」のご宣託を下したのだ。
 余談になるが、嶋田功は私の記憶では3度ほど再起不能といわれた大怪我をしている。1973年中山5Rキングムーティエで落馬したときには頭蓋骨と肋骨骨折。他社の友人と病院に見舞ったが、「面会謝絶」の張り紙で引き返したことがある。それでも馬群を恐れない。ラチ沿いのインをこじあけてきたものだ。
 私の忘れられない記憶の一つに仲住芳厩舎の準オープン、クラセンプーの騎乗がある。あれは1976年11月6日の秋嶺賞(4着)か1977年6月12日の欅特別(5着)だ。先行していたクラセンプーが直線に入る、これからというときに手綱が切れた。慌てず騒がず嶋田功は片手でタテガミをつかみ、一方の手で手綱をリングに結びつけているではないか、しかも、結び終えると必死に追いあげたのである。
「おい、見たか」と仲住芳師。
「見ましたよ」。
「あいつは凄いなぁ」。
 色濃く徒弟制の残る当時のうまや社会。乗り役出身の調教師が騎手を褒めることなど稀な時代に、感に堪えかね「あいつは凄いなあ」と仲住芳師をうならせた男。それが嶋田功である。やさ面で冷静。しかし、内に秘めた闘志ははるか常人を超えていた。その男が「自分なら一番乗りやすそうなカバリダナーに乗りたい」と言うのである。
 くり返すが、喘息の持病がありながら、火曜〜木曜に5キロの減量を繰り返しながら、前3年連続オークスを勝っている“牝馬の嶋田功”が言ったのである。

●前夜の検討会議で
 みんなの意見が一致


 悪いことは重なるものだ。美浦のトレーニングセンターがなかったこの時代、日刊競馬のトラックマンは金曜日に出社し、新聞制作後に予想会議をやっていたのである。トラマン対談の中身を読んでいただきたい。ここには書かなかったが、「テスコガビーはスピードがありすぎるし、どう見てもマイラー。重馬場(当日は晴れ・稍重)の2400mはもたないと思うよ」とダメを押した東京の時計担当・篠崎典行の言葉が、対談出席者の暗黙の了解事項となったのである。
 「嶋田功インタビュー」と「トラマン対談」この2つが重なり、新聞ができ上がったらガビーに◎のない紙面になっていたのである。

●馬券は素人衆の勝ち
 ひねりすぎた業者は完敗


 1975年5月18日。予報に反して晴天の中、テスコガビーは他の19頭を引きつれ先頭を行く。4コーナーで馬群が一度は詰まったが、桜花賞と同じく直線は独走だった。勝ち時計は2分30秒6、後続はなすすべもなく遥か8馬身後方で2着争いをしていた。2着馬は遮眼帯で一変した15番人気のソシアルトウショウ(トウショウボーイの1つ上の姉)だった。重馬場が得意のステイヤー、パーシア産駒、日刊競馬で◎が並んだカバリダナーは14着。 素人衆には簡単な馬券だったことだろう。しかし、業者には手の出ない馬券だった。

オークス・直線独走 ●なんと超スローの62秒6
 オークスも8馬身差の楽勝


それにしても、5ハロン《62秒6》の超スローペースとは…。
72年タケフブキ  2分28秒8 5F《60秒1》
73年ナスノチグサ 2分28秒9 5F《61秒2》
74年トウコウエルザ2分29秒1 5F《60秒4》
75年テスコガビー 2分30秒6 5F《62秒6》
 ちなみに不良馬場のカネヒムロの勝った71年が《62秒3》、同じく不良馬場の76年テイタニヤの時ですら《62秒0》なのである。
 スタミナを問われることもなくテスコガビーはオークスを制し、二冠馬となった。8馬身という決定的な着差は、テンが1秒や2秒速くなったとしても、たぶん変わらなかったことだろう。
 今でも私はテスコガビーが史上最強の桜花賞馬だと思っている。ただし、それは1600mだからである。2400mでは果たしてどうだったのか…。この年の牝馬には、テスコガビーの距離適性を検証するほど能力の接近した馬がいなかったのである。

●敗北の後に追い討ち
 日刊競馬オーナーの怒り


 当時の日刊競馬オーナー谷真翁(勝尾健)は、若き日にトラックマンをやっていたことがある。本紙予想では1969年の有馬記念を◎スピードシンボリ。4100円を的中させたこともある。自身の経験からその難しさを知るだけに、めったに予想に口出しすることはなかったが、オークスから5日後の金曜日、編集室に来るなり
「桜花賞を大差勝ちした馬に◎が一人もいないのはどういうわけだ! こんな予想じゃお客さんに常識を疑われる」
予想者一同、声もなかったことはいうまでもない。

オークス口取り ●誰が悪いわけではない
 それが彼女の運命だった


 1975年9月17日オークスから4ヵ月後の早朝、ガビーは右球節挫創で9針も縫う重症を負ったのだ。その後は順調でビクトリアC(当時は東で馬券発売なし)を目標に乗り始めた矢先の10月29日の調教中、今度は右後肢捻挫。約1年の休養を余儀なくされ、復帰した1976年5月2日のオープン6着。
 18日後の5月20日には右トモに不安発生、浦河の日綜牧場で休養→引退が決まったのである。しかし、引退を表明した二冠牝馬は馬主の強い要望で再び現役に復帰することになった。
 そして…運動をはじめて間もなく、テスコガビーは心臓麻痺のため朝の牧場で息絶えた。「ガビー死す!」この報道にショックを受けた私の怒りの矛先は馬主に向かった。だが、数日後の新聞が馬主の不動産会社の倒産を伝えたのである。
 競馬関係者の誰もが名牝の死を悼み、馬主のエゴイズムにガビーが殺されたと思った。では、あなたが同じ立場だったら? そして、私は倒産の瀬戸際で打ち出の小槌を振ることはないのだろうか…。
 あれから30年の時が流れた。「ガビーの子でダービーを獲りたいなぁ…」。目尻を下げて夢を語る仲住芳雄師の顔を思い出す。もしかすると、オークス後に続いた故障のアクシデントは、師が馬主からガビーを守るための方便だったのではないか。今はそんな気がしてならない。だが、もう尋ねるすべはない。2004年3月21日、仲住芳雄氏は82歳でガビーの許に旅立ったからである。
 馬主の隣人ガビエルちゃんは40代、自分の愛称と同じガビーの背でオークスの勝利写真を撮ったことを覚えているだろうか?
 誰が悪いわけではない。480キロの漆黒の馬体、顔面の大きなストライプ。父テスコボーイ、母の父に狂気の血モンタヴァル。
 桜花賞、オークスを影も踏ませぬスピードで独走したテスコガビーは、その一生をも縮めて天空を駆け抜けて行った。それが彼女の運命だった、と、いまは思うのである。【文中・敬称略】
[梅沢 直]

☆第36回優駿牝馬 優勝馬☆
テスコガビー 1972.4.14生 ・青毛
テスコボーイ
1963 黒鹿毛
Princely Gift
1951 鹿毛
Nasrullah
Blue Gem
Suncourt
1952 黒鹿毛
Hyperion
Inquisition
キタノリュウ
1965 栗毛
モンタヴァル
1953 鹿毛
Norseman
Ballynash
オックスフォード
1955 黒鹿毛
ライジングフレーム
ヨシヒロ
5代クロス Nasrullah 3x4 Blandford 5x5
 



馬主………長島 忠雄
生産牧場…静内・福岡 巖
調教師……東京・仲住 芳雄

通算成績 10戦7勝[7.1.1.1]
主な勝ち鞍 優駿牝馬(1975年)
桜花賞(1975年)

受賞歴 「優駿」主催
最優秀4歳馬(牝)(1975年)

全成績はこちら


1975年5月18日
第36回オークス 東京・芝2400m・稍重
[3]テスコガビー牝455菅原 泰夫2.30.6
[5]10ソシアルトウショウ牝455中島 啓之
[6]12トウホーパール牝455小島 太1.1/2
 上がり 49秒1−36秒6
単勝 230円  複勝 150円 2210円 190円
枠連 3−5 1400円    




 株式会社日刊競馬新聞社 東京都品川区大崎1-10-1