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馬 題字
1970年12月20日
第15回有馬記念
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馬柱 高貴な精神を持った馬
 我慢のスピードシンボリ


◎本当に強かったのか?
 スピードシンボリがデビューしたのは1965年10月4日。新馬(中山・芝1200)4着。この年は米国が北ベトナムへの爆撃を始め、ソ連が人類初の宇宙遊泳。中国では文化大革命が起こり、ビートルズ旋風が世界を席巻したんだ。それに、大学生が100万人(25%)になり、山崎豊子の「白い巨塔」がベストセラーになったんだ。
 スピードシンボリの最後のレースは1970年12月20日の有馬記念1着だった。米国のワシントンDCインターナショナル、英国のキングジョージ6&クイーンエリザベスS、仏国のドゥーヴィル大賞典、凱旋門賞を除く国内全成績は〔17.5.5.12〕。京成盃(旧表記4歳)。AJCC、目黒記念、天皇賞春、日本経済賞(5歳)。アルゼンチンJCC(6歳)、目黒記念、ダイヤモンドS、有馬記念(7歳)。AJCC、宝塚記念、有馬記念(8歳)。6年間に亘って走り重賞12勝。成績に文句をつける気は毛頭ないのだが、俺には未だにスピードシンボリが強かったという実感がないのだ。
 こと賢さと精神力という意味では俺の見た中ではNo.1だという気はするが“強さ”はなぜかあまり感じなかった馬だ。

◎俺は人望を失った
 1969年12月20日土曜日。俺はそのころ留年していたし、もう授業にも出る気がなかった。芝居の大道具のアルバイトを本業にするか迷っていた時期だ。なにしろ公演の間だけの短期間で、いい金になったんだ。大泉学園にある専門店で専用の道具を一式そろえ、今は飲食店ビルになっている、新宿の石塚金物店で釘を買った。そうだ、あの時は手織座の安田生命ホールでの公演だったのだ。
 芝居中に大道具がバラバラになったらどうする。心配性の俺はいつも釘を2度打ち込めばいいところを3度叩いた。幕間にバラす時のくぎ抜きに手間がかかるので、「だれだよ、打ち過ぎだ」と先輩によく文句を言われたっけ。
 それでも俺は舞台装置の会社に大事にされたんだ。理由? 動員力さ。舞台の搬入、搬出は公演終了後に短時間でやらなければならない。当然リレー方式の人海戦術になる。
題字  当時俺の大学では留年組の溜まり場はサークル室だった。各サークルには牢名主のような留年生が必ずいたんだな。3月には掲示板に留年者は留年と赤字で張り出されるのだが、一人だけ満期と出ていて、みんなで大笑いをしたことがあったけ。本人は「親がうるせえんだ」と、さすがに泣きが入ったが、その男は30年以上大学生協に勤めていたのだから、勉強は嫌いでも、よほど学校が好きだったのだろう。まあ、そんなこんなで、俺も牢名主の一人だった。牢名主同士の負の結束は実に固かった。今は希望も欲望も人望もないが、その当時の俺はなぜか下級生に人望があったんだ。ひと声かけると、50人はすぐに集まった。というわけで、12月20日の夜、50人を引き連れて2時間ほどの搬出作業を終えた。
 全員を集めて俺が提案したんだ。「おい、明日は有馬記念だ。アカネテンリュウが負けるわけがない。今日のバイト賃は俺が預かる。4倍にしてやる!」。もちろん異を唱えるものなどいるはずがない。


馬 ◎シンボリ4回目の有馬記念
 1969年12月21日の有馬記念はスピードシンボリにとって、4歳3着、5歳4着、6歳3着に続く4回目の挑戦だった。外国遠征を挟んで7ヵ月ぶりの出走である。同じ外国遠征後の5歳時が4着なのである。すでに老兵7歳のスピードシンボリに出る幕などありようはずもなかったのだ…。
 レースは例によって野平祐二専用コース(中山では絶対有利な三〜四角インぎりぎり)を回って6番人気のスピードシンボリが抜け出した。大外を回って3番人気のアカネテンリュウが豪快に伸びてくる。体勢はセントライト記念→菊花賞を勝った4歳馬、昇竜・アカネテンリュウの方だった。しかし、スピードシンボリが写真判定の結果、ハナだけ残していたのである。こうして俺は後輩たちの人望を失った。

◎悪夢は繰り返す
 1970年12月20日。俺はひそかに一人リベンジを目論んでいた。手をつけていなかった日刊競馬のボーナスを懐に中山競馬場にいたんだ。今年のスピードシンボリは3番人気。アカネテンリュウは1番人気だったが、5歳と8歳。勢いが違う。たとえ配当は低くても、黙って金が2.5倍になる。後輩と牢名主たちを集めてドンチャン騒ぎをやるくらいの儲けにはなる。
 昨年と同じ乗り方の野平祐二・スピードシンボリに対し、前年と同じようにアカネテンリュウが大外を回って追い込んだ。まるでビデオテープを見ているような結果だった。悪夢は繰り返したのである。かくして俺の人望は復活することなく、紙くずのままだった。

◎走る貴族
 「鞍上で涙が出てくるほど、我慢強い馬です」と野平祐二騎手が語ったように、スピードシンボリはパドックの周回からゴールまで一滴のエネルギーロスもなく、能力で勝る相手に勝つ馬だった。460キロ台の決して大きくはない体だったが、走るために必要のない筋肉は1gだってなかった。
 シンボリ牧場オーナーの和田共弘氏が手塩にかけたスピードシンボリは以心伝心、人の想いが通じる馬だった気がする。14年後に三冠馬になった、シンボリルドルフの気高さは、間違いなく母系を通じて流れるスピードシンボリの血そのものだったと俺には思えるのだ。

馬 ◎我慢で勝った8重賞
 スピードシンボリは重賞を12勝している。その内訳は3歳0勝、4歳1勝、5歳4勝、6歳1勝、7歳3勝、8歳3勝であり、距離別で見ると1600m1勝、2200〜2300m2勝、2500m6勝。3200m3勝である。明らかにキャリアを重ねるごとにスタミナを増した晩成ステイヤーとしていいだろう。その勝ち方も、1馬身以上開いたのは4レースだけ。シンザンの少しだけ勝つ、というのとは違い、そのほとんどがしのいでしのいだ全身全霊を尽くした勝利だったのである。馬券で手痛い目にあったから言うのではない。スピードシンボリがその時代を代表する秀でた能力を持っていたとは俺には思えないのだ。競馬は1頭で走るわけではない。素直さや賢さ精神力など、サラブレッドは肉体的能力と同じように、内面が大きな要素であることを、俺はスピードシンボリに教えられたのだ。
 もうひとつ見逃せないのは、今では当たり前となっているが、千葉のシンボリ牧場でリフレッシュと鍛錬をし、レース間近に中山競馬場に入厩させる。いわゆるシンボリ方式といわれた、当時としては画期的なシステムである。和田共弘氏の馬に対する愛情と先見性を抜きにスピードシンボリは語れない。他のサラブレッドは走る労働者だった。スピードシンボリはただ1頭の走る貴族だったのである。

◎特筆すべきこと
 5歳時にワシントンDCインターナショナル(米)に遠征して5着。7歳時はキングジョージ6世&クイーンエリザベスS(英)5着。そしてドーヴィル大賞、凱旋門賞(仏)10着。和田共弘氏の海外へ向けた眼差しの熱さには脱帽するしかない。
 種牡馬としてのスピードシンボリは、シンボリ牧場の大種牡馬パーソロンとは比べようもない寂しい成績で、競馬場にピュアーシンボリ(ステイヤーズS2回、ダイヤモンドS)、シャトードシンボリ(府中3歳S)程度しか送ってこなかった。しかし、忘れてならないのは、スイートルナ(シンボリルドルフの母)を出したことである。
 皇帝と呼ばれたシンボリルドルフはトウカイテイオー(皐月賞、ダービー、ジャパンC、有馬記念)をターフに送ってくれたのだ。そしてトウカイテイオーは種牡馬5年間でトウカイポイント(マイルチャンピオンS、中山記念)、トウカイパルサー(愛知杯)、タイキポーラ(マーメイドS)、ストロングブラッド(カブトヤマ記念、さくらんぼ記念)、ヤマニンシュクル(阪神ジュベナイルF)などを出している。我慢強い高貴なスピードシンボリの血は今も競馬場に脈々と流れているのである。それはとりもなおさず、競走馬に人生をささげた和田共弘氏の情熱が駆け巡っているのだとは言えないだろうか。

〔梅沢 直〕

☆1967・70年度代表馬☆
☆顕彰馬☆

スピードシンボリ 1963.5.3生 牡・黒鹿毛
ロイヤルチャレンヂャー
1951 栗毛
Royal Charger Nearco
Sun Prince
Skerweather Singapore
Nash Light
スイートイン
1958 鹿毛
ライジングライト Hyperion
Bread Card
フィーナー Orthodox
Sempronia
 

馬主………和田共弘
生産牧場…千葉・シンボリ牧場
調教師……中山・野平富久 → 野平省三

通算成績 43戦17勝[17.5.5.16]
 国内[17.5.5.12]
 海外[0.0.0.4]
主な勝ち鞍 天皇賞・春(1967年)
有馬記念(1969、1970年)
宝塚記念(1970年)


1970年12月20日
第15回有馬記念 中山 芝2500m・良
[5]スピードシンボリ牡855野平祐二2.35.7
[6]アカネテンリュウ牡556丸目敏栄クビ
[3]ダテテンリュウ牡454宇田明彦ハナ




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