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馬 題字
1982年12月26日
第27回有馬記念
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馬柱 ◎一介の地方馬

 1982年(昭和57年)。史上に残る異常な事件が2日連続で起きたことをいやでも思い出す。

 2月8日、東京・赤坂のホテルニュージャパン火災。同日未明に発生、死者33名を出す大惨事となった。非常ベルのスイッチを切った上にスプリンクラーの不備。人災の色合いが濃く、横井英樹社長はのちに逮捕されている。何かと噂の多かった“乗っ取り王”の失墜。例の蝶ネクタイ姿が、連日のようにテレビ画面を賑わした。

 2月9日、日航機羽田沖墜落。「機長、やめてください」。副操縦士の悲鳴とともに、着陸寸前のDC8機は滑走路ではなく海に向かって進んで行った。死者24名。“K機長”といえば、思わずうなずいてしまう人も多いだろう。ほどなく“逆噴射”は流行語となり、“心身症”という病気が広く世に知られることになった。

 連続事件当時、ヒカリデユールは東海公営の6歳馬。前年の東海桜花賞を制しているとはいえ、戦歴は36戦7勝と平凡だった。デビュー当時は南関東所属(大井・飯野厩舎)。羽田盃・東京ダービーとも4着でタカフジミノルの二冠を許し、暮れの東京大賞典ではトウケイホープの11着と完敗を喫している。二流ではないが、一流半。6月の東海キング(3着)を最後に中央入り際に、特に話題にならなかったのは当然だろう。

 この年、地方出身馬で注目されたのはホスピタリテイ(大井・朝倉→美浦・稲葉幸)だった。ヒカリデユールより2年後輩の俊英は、青雲賞、京浜盃、黒潮盃、羽田盃をすべて楽勝。8戦全勝、土つかずのまま中央に乗り込んできた。10月3日に行なわれたセントライト記念で皐月賞馬のアズマハンターを下して9連勝。これはハイセイコー以来となる地方出身馬の中央緒戦重賞勝ちで、菊花賞の登録がないことが惜しまれた(当時は追加登録制度はなし)。

馬 ◎躍り出た野武士

 ヒカリデユールの中央緒戦は、9月19日の朝日チャレンジカップ(阪神芝2000M)に決まった。82年前半は春に2戦して3着2回。ここが3ヵ月ぶりだったせいもあって、11頭立ての7番人気。牡馬の一線級は不在ながら、伏兵扱いを受けたのは仕方ない。

 しかし、レースは観戦者に衝撃を与えるものだった。重馬場で良馬場並みの勝ちタイム・2分0秒5。直線だけで10頭をゴボウ抜きする豪脚を見せたのだ。500キロを超える馬体ということもあって、重戦車のようなド迫力。遅咲きの新星誕生である。

 改めて血統を見ると、母はサラ系のアイテイグレース。祖先に血統証明書がない馬が存在する“サラ系”は、ともすれば雑草扱いされてしまうのだが、ヒカリデユールの母系は優秀だった。1926年(大正15年)、オーストラリアから輸入されたバウアーストツクの一族。クラシックレースの勝ち馬だけでも、1956年(昭和31年)の菊花賞、1957年(昭和32年)の天皇賞・春を制したキタノオー、1960年(昭和35年)の菊花賞馬・キタノオーザ、ヒカリデユールの祖母で1963年(昭和38年)のオークスを勝ったアイテイオーがいる。父・デュールは、皐月賞馬(1979年・昭和54年)のビンゴガルーを出していて、芝で一変しても納得できる背景はあった。

馬  一躍、ヒカリデユールは秋の注目馬となった。とはいえ、本当に強い相手と戦ったわけではない。中央2走目は天皇賞・秋(10月31日、当時は東京芝3200M)。サンエイソロン、アンバーシャダイ、キョウエイプロミス、メジロティターンに続いての5番人気は、地方時代の地味な戦歴を考えれば、むしろ高い評価だった。

 2着。メジロティターンがスローペースから早めに抜け出してレコード勝ち(3分17秒9)を収め、終始外を回って後方から追い込んだヒカリデユールが1馬身1/2差でこれに続いた。

 届かなかったとはいえ、もう本物だ。中央3戦目は、迎えて2年目のジャパンカップ(11月28日)となった。今なら当然…と思えるこのローテーション。しかし、晴れの国際レースの舞台に、秋の天皇賞人気上位4頭と春の天皇賞馬・モンテプリンスの姿はなかった。第1回でホウヨウボーイらが軽く外国馬にひねられた上に、第2回にはジョンヘンリー、エイプリルランら前年をはるかに上回る超大物が登場。戦う前から“日本勢は馬場を貸すだけ”に近いムードすらあった。日本代表は、ヒカリデユール、カズシゲ、カツアールの地方出身トリオに、天皇賞・秋で8番人気のトドロキヒホウ、牝馬のスイートネイティブを加えた5頭だった。

 5着。しかし、直線伸びて0秒3差。日本馬最先着は当然としても、予想以上のレース内容だった。「世界との差は縮まった」「いや、スローで時計も遅い。小差に見えて決定的な違い」と議論を呼んだものだが、ともかくヒカルデユールの差し脚が世界的な強豪を相手に見せ場を作ったのは確かだった。

馬 ◎ツキも味方

 4戦目は、もちろん暮れの中山グランプリ、有馬記念(12月26日・今回掲載の紙面)。天皇賞・秋から直行で力を温存したアンバーシャダイ、メジロティターンが1、2番人気となり、ファン投票8位のヒカリデユールは3番人気。前年の菊花賞馬で叩き3戦目のミナガワマンナが4番人気、宝塚記念以来のモンテプリンスが5番人気で続いた。

 幸運が訪れていた。降りしきる雨。薄暗い場内に傘の花が咲き、82年の有馬記念は重馬場で行なわれることになった。道悪競馬は朝日チャレンジカップで経験済み。ヒカリデユールには何の不安もなかった。一方、モンテプリンスの重下手は有名で、ミナガワマンナも苦手な部類。メジロティターンには有利と思われたが、この日は中団のまま沈んでいった。

 最後の直線、アンバーシャダイが坂下で先頭に立った。芝重3勝で前年の覇者。連覇かと思ったその瞬間に、外から黒鹿毛の巨体がグイグイ迫ってきた。アタマ差。わずかながら、しかし確実に突き抜けた。

 頂点に立ったヒカリデユール。82年の中央4戦で競走能力のすべて発揮した。堂々の年度代表馬。記者投票で121票を集め、次点のモンテプリンス(17票)を圧倒している。

 同時期に大物と騒がれたホスピタリテイと比べると運命の差は過酷である。ホスピタリテイは、82年ジャパンカップの調整レースだった平場オープンでカナダのフロストキングに敗れてからは、脚部不安に苦しみ、その後は1戦だけ。まともな状態に戻ることはなかった。単に走る素質だけを比較すれば、おそらくヒカリデユールよりホスピタリテイの方が上。しかし、中央での実績は大差がついてしまった。

 負けても負けても“その時”を待ち続けたヒカリデユール。運にも恵まれ、目立たない地方馬から一気に成り上がり、満天下に末脚を披露することができた。翌1983年(昭和58年)の天皇賞・春でレース中に故障して引退となったが、晩年に花開いて思い残すことはなかっただろう。
〔田所 直喜〕

☆1982年度代表馬☆
ヒカリデユール 1977.3.6生 牡・黒鹿毛
デュール
1961 黒鹿毛
Round Table Princequillo
Knight's Daughter
Lea Moon Nasrullah
Lea Lark
アイテイグレース
1967 栃栗毛
ゲイタイム Rockefella
Daring Miss
アイテイオー ハロウェー
キタノヒカリ
 

馬主………佐々 洋 → 橋本善吉
生産牧場…新冠・キタノ牧場
調教師……栗東・須貝 彦三

通算成績 45戦10勝[10.3.8.24]
地方[7.2.7.22]
中央[3.1.1.2]
主な勝ち鞍 有馬記念(1982年)


1982年12月26日
第27回有馬記念 中山 芝2500m・重
[5]ヒカリデユール牡656河内 洋2.36.7
[3]アンバーシャダイ牡656加藤和宏アタマ
[6]11キョウエイプロミス牡656柴田政人1.1/4




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