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馬 題字
1981年10月25日
第84回天皇賞・秋
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馬柱 ◎遅れてきた大物

 ホウヨウボーイの同期生は1978年(昭和53年)クラシック組。ファンタスト(皐月賞)、サクラショウリ(ダービー)、インターグシケン(菊花賞)、オヤマテスコ(桜花賞)、ファイブホープ(オークス)の世代である。しかし、ホウヨウボーイはこの5頭と対戦することはなかった。1977年(昭和52年)12月にデビュー戦の新馬(中山芝1200M)を勝った後、右管骨はく離骨折。長期休養を強いられてしまった。2戦目は実に1年8カ月後。5歳(旧表記)の夏まで待たねばならなかった。

 それだけ長く休んでも辛抱強く再起を図ったのは、ホウヨウボーイに大物の相があったからだ。

 父・ファーストファミリーはアメリカの三冠馬・セクレタリアトの半兄で、曽祖父がロイヤルチャージャー。母・レアリーリーガルは祖父がロイヤルチャージャーで、豊洋牧場が期待を込めて輸入した繁殖牝馬だった。ネアルコ直系の名種牡馬・ロイヤルチャージャー4×3。奇跡の血量と呼ばれた18.75%のクロスを実現して作り出されたのがホウヨウボーイだった。

 生まれてみると、文句なしの好馬体。走らせてみると、直線一気のゴボウ抜きで後続に6馬身差。立て直せば必ず走る。管理の二本柳俊夫師は、大レース制覇を確信していた。

 再起戦は1979年(昭和54年)8月、函館芝1700Mの400万平場。これを快勝すると、オープンまでオール連対で駆け上がった。翌1980年(昭和55年)、6歳になったホウヨウボーイは重賞初挑戦の日経賞(3月)を2番人気で優勝。ゆったりしたローテーションで臨んだ初の大レース・天皇賞(秋)こそ7着に終わったが、有馬記念では5歳カツラノハイセイコ、7歳カネミノブら他世代の一流馬を下し、遅まきながら完全に本格化した。

題字  もっとも、この一発で年度代表馬に選ばれたのは恵まれた面が大きかった。ホウヨウボーイが負けた天皇賞は、6歳牝馬プリティキャストがノーマークの大逃げで7馬身差粘り込み。レースが壊れていた。年度代表馬の記者投票2位が4歳牝馬ハギノトップレディで、最優秀4歳牡馬がクラシック無冠のモンテプリンス。これらの結果は、80年が確たる主役を欠いていたことを如実に示している。

馬 ◎2年連続で年度代表馬

 4番人気で有馬記念を1つ勝った程度では二本柳俊夫師は満足していなかった。「次は天皇賞」と目標レースを明言したが、春に肩や脚に不安が生じて、またもや休養に入った。明け7歳、いかに素質馬とはいえ、もう多くの時間は残されていない。秋の天皇賞はジャパンカップの創設により1カ月早くなっている。9月のオールカマー(5着)を叩いた後、戦える状態に仕上げる必要に迫られた。

 1981年(昭和56年)10月25日。この日のモンテプリンスとの死闘は今でも語り草で、東京の天皇賞が3200Mだった当時の名勝負といっていい。ホウヨウボーイの鞍上は当時若手の加藤和宏騎手。叩き合った相手のモンテプリンスには、吉永正人騎手(現調教師)。ラスト1Fの攻防は熾烈を極め、ハナ差で若武者に軍配が上がった。ホウヨウボーイが古馬最強を示した瞬間だった。

馬  この両雄は、外国馬を迎え撃つべく11月22日の第1回ジャパンカップに出走した。招待馬のザベリワンに続いてモンテプリンスが2番人気。ホウヨウボーイは3番人気だった。

 結果はご存知の通り。1着から4着まで外国馬が独占して、日本馬の最先着はレコード決着から遅れること0.5秒でゴールドスペンサー。ホウヨウボーイは6着、モンテプリンスは7着に敗れた。

 このレースは、ゴールの順番や着差以上に説得力があった。一線級不在、遠征の不利を囁かれながら、外国馬の圧倒的な迫力と強さ。大げさではなく、史上に残るはずの天皇賞の熱闘がかすんでしまうほどの衝撃度だった。

 ホウヨウボーイは12月20日の有馬記念で2歳下の同厩舎所属馬・アンバーシャダイの2着に敗れて引退した。モンテプリンス(3着)には意地で先着を果たし、弟格の同僚にバトンタッチ。ちょうど潮時だったのだろう。

 81年の年度代表馬選考。天皇賞優勝、有馬記念2着のホウヨウボーイが順当に選ばれたが、どうもすっきりしなかった。最後にアンバーシャダイに勝たれたのはいいとして、日本の競馬ファンの期待を集めたジャパンカップ…。ゲートに鼻をぶつけるアクシデントがあったことを考慮しても、屈辱の完敗シーンが脳裏から離れない。2年連続選出の快挙。しかし、80年とは違った意味で、ヒーローになり切れなかった。

◎時代の狭間

 80年代初頭の状況を振り返ってホウヨウボーイら当時の活躍馬に重ね合わせると、いろいろ見えてくる部分がある。

 80年には、長嶋茂雄の監督解任と王貞治の現役引退が大きな話題となった。読売だけではなく、プロ野球の屋台骨を支えたONに異変。翌81年は、3000本安打の張本勲がバットを置き、西本幸雄・近鉄監督も日本一になれぬまま球界を去った。

 WBA世界ジュニアフライ級チャンピオン・具志堅用高が81年3月に王座から陥落した。13回連続防衛。無敵を誇ったカンムリワシも、ついに翼を休める時がやってきた。

 大相撲では輪島・貴の花が81年引退。この年の11月、九州場所では、不沈艦と恐れられた北の湖が右ヒザの故障で初の休場を余儀なくされた。以降、北の湖は2回しか優勝できず、角界の覇権は千代の富士に移って行った。

 80年のモスクワ五輪ボイコット。柔道の山下康裕が叫び、レスリングの高田裕司が泣いた、あの記者会見。オリンピックによって作られるはずのスター選手がいなくなってしまった。

 そういえば、先日(7月19日)亡くなった元首相は、80年の7月、“三角大福中”の規定路線から外れたダークホースとして登場した。鈴木善幸内閣。大平正芳首相の突然の死去により、大平派の番頭が思いがけずトップに上り詰める形となった。田中(角栄)派との親密な関係は政局に大きな影響を及ぼし、“メザシの土光”を会長に据えた第二臨調(茶番?)や行政改革の掛け声も懐かしいが、印象としては「つなぎ」のイメージが濃かった。

 さて、中央競馬。80年の年度代表馬選考過程しかり、81年の日本馬全滅ジャパンカップしかり。ホウヨウボーイが光彩を放った80〜81年の競馬界は、盛り上がりという点では他のスポーツ界と足並みをそろえるかのように今一歩だった。売り上げを見ると、81年は公営競馬・競輪・競艇・オートがマイナス。3%増の中央競馬も入場者は減らし、続く1982年(昭和57年)も各競技とも低調傾向から脱することはなかった。

 しかし、矢が弓を一旦後ろに引くことによって前に飛ぶように、何事にも力をためる時期はある。ミスターシービー、シンボリルドルフが三冠馬となり、カツラギエースが日の丸を掲げるまで、日本の競馬史は「つなぎ」を必要としていたのかもしれない。

 長らく大レースを僅差で勝てずに苦み抜いたモンテプリンス。アブノーマルな戦歴で「晩成するしかなかった」ホウヨウボーイ。本当の花形とはいえない彼らが、外国馬にプライドを破壊されても走り続けた81年。ホウヨウボーイを筆頭とするあの頃の競馬は、間違いなく今日につながっている。

〔田所 直喜〕

☆1980・81年度代表馬☆
ホウヨウボーイ 1975.4.15生 牡・栗毛
ファーストファミリー
1962 栗毛
First Landing Turn-to
Hildene
Somethingroyal Princequillo
Imperatrice
ホウヨウクイン
1969 鹿毛
レアリーリーガル Royal Charger
Fresh Air
豊隼 フェリオール
ダッシングラス
 

馬主………古川 嘉治
生産牧場…門別・豊洋牧場
調教師……美浦・二本柳俊夫

通算成績 19戦11勝[11.5.0.3]
主な勝ち鞍 有馬記念(1980年)
天皇賞・秋(1981年)


1981年10月25日
第84回天皇賞・秋 東京 芝3200m・良
[1]ホウヨウボーイ牡758加藤和宏3.18.9
[5]10モンテプリンス牡558吉永正人ハナ
[7]14ゴールドスペンサー牡658大西直宏




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