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馬 題字
1992年5月31日
第59回日本ダービー
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馬柱 ◎バブル崩壊

 1992年(平成4年)を迎えると、いわゆる“バブルの崩壊”は誰の目にも明らかになった。政府の各種景気対策は効きめが見られず、企業の売り上げ低下・設備投資減少、個人消費は落ち込み、不況は深刻なものとなった。経費削減、ボーナス現物支給…。会社倒産や地価下落が数々の悲劇を生んだのは記憶に新しい。

 そんな時勢ながら、当社中央版はこの年4月、旧来の活字製版からコンピーター製版に切り替わり、紙面を一新している。筆者は入社4年目。活字時代の苦労を知る最後の世代で、仕事の内容の変化に驚いたり感心したりしていた。

 例えば、皆様が何気なくご覧になっている「本紙の連番」。機械化前は競馬会発表の出馬表で番号を確認、それを原稿にして活字を拾い、さらに校正という手順だったのが、端末機に出走馬を枠順通りに打ち込めば自動的に連番を引いて出力されるようになった。出走馬の並び変えも、手作業から完全自動化。最終チェックは以前と同じように行うとはいえ、機械に任せられる作業は人間より速くて正確であることを痛感した。

題字  出版業界の中では電算化が遅れていた競馬新聞。その中で悪戦苦闘していた筆者は、恥ずかしながら世の中の動向の変化を機敏に感じていなかった。結果として学生時代からの浮世離れした日々(今も同じ?)を続けていたことになり、おかけで幸か不幸かバブル経済の恩恵も被害も受けていない。

 中央競馬の売り上げは、当時まだ右肩上がり。92年、中央競馬は一時の勢いこそなくなったものの、前年対比売り上げ105%。3兆6千億円産業だった。不況に強いという神話をそのまま信じていたわけではないものの、若気の至りで深く考えることはなく、ただひたすら働いて遊んでいた。

 なお、地方競馬・競輪・競艇の最盛期はそろって1991年(平成3年)で、売得金額は順に9824億円、1兆9388億円、2兆2200億円。92年以降、しばらくは中央競馬の一人勝ちの状態が続くわけだが、1997年(平成9年)の4兆円到達でついにピークを迎える。その後の経過は、皆様もご存知の通りである。

◎吉岡稔真・特別初制覇

 92年はオリンピック・イヤーということもあって、全般的にスポーツに対する関心が高かった。怪しくなりつつある世相を背景に、人々は楽しい話題を求めていたのかもしれない。

 冬夏五輪が同じ年に行なわれたのは、92年が最後。冬季がアルベールビル(フランス)、夏季がバルセロナ(スペイン)での開催だった。荻原健司、橋本聖子、伊藤みどり。古賀稔彦、池谷幸雄、岩崎恭子。活躍するメダリストたちに声援が送られた。

 プロ野球は、激戦のセ・リーグをヤクルトが制覇。それを日本シリーズで4勝3敗で下した西武が3年連続の日本一に輝いた。シーズン終了後、読売監督に復帰した長嶋茂雄がドラフト会議で松井秀喜(現ヤンキース)を引き当てている。

 前年に千代の富士が引退した角界は、引き続き“若貴ブーム”。貴花田(のちの貴乃花)は、この年優勝2回。出世レースで先行していたライバル・曙も2回優勝。貴花田の兄・若花田(のちの三代目・若乃花)は途中休場2回とケガに泣いたが、それでも技能賞を2度獲得して非凡な相撲センスを示した。

 競輪では、選手生活わずか2年・21歳の吉岡稔真(65期・福岡)が3月のドーム・ダービー(前橋日本選手権)で優勝している。

 「この前特進した65期の新人、強いらしいね」
 「競輪学校は2位で卒業だっけ。どの程度なのか楽しみだな」

 そんな会話を交わしながら、暮れの立川に3日間足を運んだのは1990年(平成2年)。そこで見たデビュー9カ月目の吉岡稔真は“本物”だった。グランプリの前座で行なわれたS級シリーズ・阿佐田哲也杯決勝の後、

 「来年は“次のレース”に乗って勝つだろう」。

 翌91年は失格・落車など不運が重なり目算違いとなったが、ひと目で10年に1人と分かる大器を見間違えるはずがない。92年はダービー以外に競輪祭(当時は11月開催)と平塚グランプリで優勝。“予言”は1年遅れで実現した。

 残念ながら、吉岡以降は競輪ではそんな新星誕生のシーンに立ち会っていない。今が全盛の村上義弘(73期・京都)、2年連続で競輪祭・日本選手権・グランプリ優勝の偉業を成し遂げた山田裕仁(61期・岐阜)は、ともに才能のきらめきは見せていたものの晩成型。神山雄一郎(61期・栃木)や小嶋敬二(74期・石川)は、最初からエリートと目されながら、なかなか特別を取れなかったタイプ。吉岡のように、若くして一気にスターダムにのし上がり、そのまま時代を作る選手は、そう簡単に現われないということだ。

 それにしても、あのドーム・ダービー優勝戦。滝澤正光(43期・千葉)のイン粘り、井上茂徳(41期・佐賀)の超巧技…。今思い出しても、吉岡の優勝という話題性と同時に中身の濃さが出色だった。

馬 ◎坂路の戸山厩舎

 競馬は大物探しを楽しみやすいのが特長だ。今シーズンの例でいえば、ダンスインザムード(桜花賞馬)、ダイワメジャー(皐月賞馬)。この2頭の初勝利には“GI級の相”がはっきり出ていた。

 筆者がミホノブルボンで一番印象に残っているレースは、中京の新馬戦を快勝(芝1000Mを58秒1でレコードV)した後の2戦目、東上してきた際の500万平場・東京芝1600M戦である。

 後続に6馬身差。1分35秒1、ラスト2Fを11秒7−11秒9で文字通り楽勝した。記録も優秀だったが、何よりその印象が強烈だった。レースを見続けていれば、それなりに直感が養われる。「この馬、皐月賞までは負けないのではないか」。

 父・マグニチュード、母の父・シャレー。母系を見ると、良血馬ぞろいの中央馬の中にあっては特筆すべきものではない。どちらかといえば地味。戸山厩舎らしいムードを持った馬だった。

 あまり高くない馬を預かって徹底的に鍛え上げるのが戸山為夫調教師の持ち味。そんな師に、栗東坂路(1985年・昭和60年完成)は絶好の追い風となった。ハード・トレーニングは、故障を誘発するのが悩みの種。それを緩和してくれたのが、坂路でのインターバル調教である。

 坂路の効果は、多くの関西馬の好成績によって証明された。調教馬が増え、度重なるコース改修。ミホノブルボンが入厩した当時は全長785M。92年11月に現在と同じ全長1085Mになった。

 その坂路でも「少々やりすぎでは…」と批判されることもあった戸山師だが、ミホノブルボンというスピード馬を得て、いよいよトレーニングに熱が入った。

 3戦目の朝日杯3歳Sはかかりぎみに行ってヤマニンミラクルにハナ差辛勝でも、競り合ってしぶとい面を見せてくれた。4戦目のスプリングSは一転して7馬身差。単勝140円で臨んだ5戦目の皐月賞は、ナリタタイセイ以下を寄せ付けず逃げ切っている。

 あの時の直感は正しかった。そして迎えた6戦目の日本ダービー。距離が延びても変わらぬ強さと速さ。成長するにつれ、折り合いの心配はなくなっていた。もはや前をさえぎるものは何もなかった。

 このレース、今となっては、むしろ2着馬のイメージの方が強い。ライスシャワー。これが馬連の相手で29580円。のちの名ステイヤーの評価は低かった。430キロ台の目立たない馬体。スプリングS、皐月賞、NHK杯で完敗続きでは、狙いにくいのは無理もなかった。ちなみにミホブルボン、ライスシャワーと同枠のゴールデンゼウスが単勝4番人気で、枠連7−7は1370円。91年10月から本格運用となった馬番連勝。初の“馬連ダービー”は、その威力をまざまざと見せつける結果となった。

◎もうひとつのこだわり

 戸山師は厳しい鍛錬で知られたが、もうひとつ、騎手の起用にも一家言があった。「自厩舎の所属騎手を使い続ける」。小谷内秀夫と小島貞博、この2人の弟子の騎乗にこだわっていた。

 「強い馬にうまい騎手が乗る」。優勝劣敗の勝負の世界、それはある意味正しい。しかし、これがあまり極端な形になると、少なからぬ弊害を呼ぶように思う。

 リーディングの上位騎手。腕達者な外国人&地方ジョッキー。重賞や特別はもちろん、優先出走順のルール改定によって古馬500万と未勝利戦も特定騎手に騎乗馬が集中しやすくなった。父馬を見れば“サンデー”だらけ。有力厩舎も有力馬主も限られている。最近の競馬を見ていると、良くも悪くも“幅”がなくなったと感じる。

 ミホノブルボンの現役時代、大相撲は活気に満ちていた。キーワードは二世・学生・外国人。彼らの活躍は、それはそれで良かったのだが、一方で勢力構図の単調化を招いた。ニ子山部屋、武蔵川部屋の寡占支配。過ぎ去ってみれば、その後遺症は不人気という形で現われた。

 多様性の確保。これは興行を成り立たせる上で欠かせない要素だと筆者は認識している。コスモバルクの存在が、今年の日本ダービーを盛り上げたのは間違いない。勝った負けただけではない潤い。いろいろな角度から楽しめる方が面白い。

 中堅馬に自厩舎の騎手を乗せる。古い徒弟関係にこだわりすぎるのは良くないが、そうやって戦うことによって“独特の味”が醸し出される。ドラマも生まれるし、苦労も見る側に伝わってくる。もう時代遅れの考え方なのだろうか。

 日本ダービーの後、ミホノブルボンは京都新聞杯(当時は菊花賞トライアル)を勝ち、ラストランとなった菊花賞はライスシャワーの2着に敗れた。

 すでにガンに冒されていた戸山師は、翌1993年(平成5年)の日本ダービー前日に亡くなっている。61歳だった。不遇の騎手時代を経て、調教師転向後につかんだ栄誉。晩年は、自らの信念をミホノブルボンや厩舎スタッフとともに貫き、数字で残した以上の影響を我々に与えた。
〔田所 直喜〕

☆1992年度代表馬☆
ミホノブルボン 1989.4.25生 牡・栗毛
マグニテュード
1975 鹿毛
Mill Reef Never Bend
Milan Mill
Altesse Royale セントクレスピン
Bleu Azur
カツミエコー
1983 青毛
シャレー Luthier
Christiana
ハイフレーム ユアハイネス
カミヤマト
 

馬主………(有)ミホノインターナショナル
生産牧場…門別・原口 圭二
調教師……栗東・戸山 為夫

通算成績 8戦7勝[7.1.0.0]
主な勝ち鞍 朝日杯3歳ステークス(1991年)
皐月賞(1992年)
日本ダービー(1992年)


1992年5月31日
第59回日本ダービー(GI) 東京 芝2400m・稍
[7]15ミホノブルボン牡457小島貞博2.27.8
[7]13ライスシャワー牡457的場 均
[3]マヤノペトリュース牡457田原成貴ハナ




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