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馬 題字
1983年5月29日
第50回日本ダービー
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馬柱 ◎KPK制度の実施

 1983年(昭和58年)は、NHK朝のテレビドラマ「おしん」に日本中が注目した。本放送で40%を超える視聴率をマーク、その後、59カ国で放映され、東南アジアでは大ウケとなった“国民的番組”だった。80年代では考えられぬ貧困・逆境。耐える少女(子役・小林綾子)の健気な姿が、特に年配者の心をつかんだ。

 「おしんドローム」「おしん国会」「おしん横綱」など、おしんを冠にした言葉が大流行。辛抱すなわち“おしん”であった。おしんの故郷・山形が、空前のブームを見逃すはずがない。土産物に「おしんまんじゅう」「おしん酒」、ついには最上川の舟下りも「おしんライン」と改名された。

 ライン…といえば、この年の公営競技界の大きな話題に競輪プログラム改革構想(KPK)制度のスタートがあった。

 KPKでは、それまでのA級1〜5班、B級1〜2班の2層7班から、S級1〜3班、A級1〜4班、B級1〜2班の3層9班へ、選手編成を大きく変更。各クラスの実力差を小さくして好配当を多くするのが、その狙いの主眼であった。

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 旧制度の競輪では、1班は無論、2班と5班でも同クラスながら格段の脚力差。その結果、連単で200円を切る低配当が頻発してしまうことがあった。力が違いすぎる場合は、所属地区とは関係なく、一番強い先行選手に一番強い追い込み選手がマーク。強力本線が別線を圧倒して、レース自体が単調になるケースが多かった。堅い番組だと大口勝負以外は意味なし。これが売り上げ頭打ちの一因とされ、制度変更となった。

 筆者は旧制度の経験がない世代だが、KPKの中では実力差の大きい組み合わせになりやすかったダービートライアルで、全盛期の滝澤正光(43期・千葉)に山口健治(38期・東京)が付け切って120円(もちろん連単)というレースがあったのを覚えている。ああいう番組が1日にいくつもあると普通に勝負したいファンはシラケる…と思ったものだ。

 KPKでは選手間の競走得点差の小さい番組が増えたのに伴い、無用な争いを避けるために地域別のラインが大半となった。埼京、栃茨、南関…。トップクラスはともかく、選手の約9割が在籍するA級とB級では、チームプレーによるライン戦の色合いが濃くなった。また、それに伴って、いろいろな“定跡”が生まれた。

 一昨年3月、19年に及ぶKPK競輪は幕を閉じ、現制度(S級1〜2班、A級1〜3班)に移行した。ヒラ開催(オールA級のFII)のレベルも、競走得点のシステムも変わった。3連単がすっかり定着。地上波の放送が激減して、インターネット中継が増えた。さすがに黄色のユニフォームが6番車に見えることはなくなったが、状況の変化も含めて、いまだに感覚に合わない部分が残っている。

 競馬でも皮膚感覚は大切。そして競輪と同じような変革があったとすると、影響はGIより条件クラスの方が大きいと予想される。GI級の場合、ローテーションやステータスに変化はあっても、レベル自体が極端に変わることはない。最高の番組には、結局それにふさわしい馬が出てくるしかないだろう。レースの数も少ない。しかし、条件戦で賞金計算やクラス編成が一変すれば、これは大事件。ほとんどのレースで、長年培ってきた“カン”や“常識”を築き直す必要に迫られるからだ。

馬 ◎シンザン以来19年ぶり

 ミスターシービーが駆け抜けた当時の中央競馬を振り返ろう。
 83年はグレード制が導入された前年。天皇賞・秋が3200Mで行なわれた最後の年(優勝はキョウエイプロミス)である。翌1984年(昭和59年)にマイルチャンピオンシップが創設され、安田記念と並んでGTに格付けとなった。短・中距離馬に注目が集まりやすくなると同時に、名マイラー・ニホンピロウイナーの台頭。これはタイミングが良かった。そして、“GT元年”に皇帝シンボリルドルフの制圧劇。売り上げも、この年からはっきり上向いている(前年比104%)。客観的に見て、84年を中央競馬のターンニングポイントとするのが自然である。

 しかし、筆者は83年がひとつの区切りという印象を持っている。ミスターシービーがいたからである。

 モンテプリンスもホウヨウボーイもアンバーシャダイも、確かに強い。だが、「シンザンを超えろ」のキャッチフレーズにこたえる馬はいつ現われるのか。当時、競輪と同じく売り上げが伸び悩んでいた中央競馬は、そんなレベルで話題を集める馬を心待ちにしていた。そこに天馬トウショウボーイ産駒・ミスターシービー。これが期待通りにシンザン以来19年ぶりの三冠馬になったのだから、ファンも関係者も沸きに沸いたのは当然だろう。

 ミスターシービーは、その走りっぷりも忘れがたいものだった。名馬らしからぬ出っパの悪さ。非効率と思える位置取り、コース選び。父がトウショウボーイで母が快速シービークインなら、もっとスマートなスピード馬で良かったはずだが、既成概念の枠に収まり切らない魅力があった。 

 鞍上の吉永正人騎手(現調教師)もはまり役。無口で不器用、しかし追わせて達者な中堅ジョッキーは、元来が一気逃げと直線強襲を得意とする異能派。ミスターシービーを得て、あのコンビだけが知る絶妙の騎乗リズムを作り出していた。

 今回掲載の紙面は、第50回ダービー。区切りのメモリアル・レースとして、競馬会は様々なイベントや記念品を用意した。そういう舞台にミスターシービーが出てきたことに運命を感じる。

 1コーナー最後方、3コーナーからの馬群を縫ってスパートとすると、直線入り口では5〜6番手まで進出。直線でメジロモンスニー以下20頭を斬り捨てて、文字通り独壇場だった。

 実はミスターシービー、4コーナーで外へ、直線で内へ、2度にわたる斜行。吉永騎手は4日間の騎乗停止処分を受けている。ビデオで確認すると、失格といわれても仕方ないようにも見える。降着制度があったとしたら、大本命馬でなかったとしたら…。だが、余計な詮索は野暮。それほどミスターシービーの役者ぶりは際立っていた。

 2000Mになって初めての天皇賞・秋(84年)。ミスターシービーは5歳になっていた。カツラギエース(5歳)、ホリスキー(6歳)、モンテファスト(7歳)。各世代の強豪が集まった中、ミスターシービーはバックストレッチでは離れたしんがりを進んだ。新設のターフビジョン(当時は1基だけ)に映し出された様は例によって常識外れだったが、ゴール前では当たり前のように突き抜けている。単勝170円の馬に、驚異の逆転劇を見せられたファンは堪らない。大喝采とともに場内に何ともいえぬ余韻が漂った。

 その後、1年後輩の三冠馬・シンボリルドルフに主役の座を譲り、一時期評価を落としたりもしたが、ミスターシービーには強い弱いを越えた何かがあった。あの馬の登場を境に、競馬場の雰囲気が変わったような気さえする。

馬 ◎寺山修司死す

 この年の5月4日、ダービーを目前に詩人・劇作家で、競馬に造詣が深かった寺山修司が亡くなっている。肝硬変、48歳。83年は、やはり時代の終焉と胎動を迎えていた。

 寺山の晩年、競馬場で女性やカップルの姿を見かけることが多くなっていた。1981年(昭和56年)に始まった「レディース・デー」。81年のオークスでは1万4千人だった女性入場者が83年のオークスでは約2万6千人に達した。これは入場者の4人に1人が女性だったことを意味する。競馬の一般レジャー化は確実に進んでいた。

 寺山の競馬に関する作品を読めば一目瞭然だが、「一家そろって中央競馬」とは対極の世界が描かれている。華やかなステージの陰に、常に死の予感。若くしてネフローゼを患うなど、自ら死と向き合っていたせいか、人馬を問わず死に関する記述が目立った。名馬の栄光の裏に、落伍者たちが思い描く一時の夢。「父さんバクチですっちゃって」。「母さん男と逃げちゃって」。競馬が決してはきれいごとだけでは済まないことを知っていた。“スシ屋の政”や“トルコの桃ちゃん”を代弁者に、我々にメッセージを送り続けた。「ファンというのは馬券の名を借りて自分を買うのである」。

 月日は流れ、オグリキャップ、競馬ブーム。そして現在は、ファン気質とともに馬券の種類も買い方も変わっている。

 寺山修司が、3連複ボックスのはびこる(?)今の状況をどう思うだろうか。3連単の“フォーメーション馬券”にどんな反応を示すだろうか。もっとも、寺山自身は単勝や複勝ばかり買っていたわけではないらしいが…。

 ミスターシービーと吉永正人のダービーを、寺山修司は見たかったに違いない。吉永はミスターシービーと出会うまで、脇役タイプの馬に乗ることが多かった。前妻にガンで先立たれる不幸を乗り越えて、男は一世一代のチャンスをつかんだのである。

 「どんな騎手にでも、一頭の馬との出会いがある。馬がその騎手の半生を決定するのである」
 「馬主各位。調教師各位。もっと吉永に乗るチャンスを与えてやってください。人生で一番大切なものを失った男は、きっとレースで何かを取り戻すはずである」(寺山修司著・競馬への望郷)
〔田所 直喜〕

☆1983年度代表馬☆
☆顕彰馬☆

ミスターシービー 1980.4.7生 牡・黒鹿毛
トウショウボーイ
1973 鹿毛
テスコボーイ Princely Gift
Suncourt
ソシアルバターフライ Your Host
Wisteria
シービークイン
1973 黒鹿毛
トピオ Fine Top
Deliriosa
メイドウ アドミラルバード
メイワ
 

馬主………千明牧場
生産牧場…浦河・千明牧場
調教師……美浦・松山 康久

通算成績 15戦8勝[8.3.1.3]
主な勝ち鞍 皐月賞(1983年)
日本ダービー(1983年)
菊花賞(1983年)
天皇賞・秋(1984年)


1983年5月29日
第50回日本ダービー 東京 芝2400m・良
[5]12ミスターシービー牡457吉永正人2.29.5
[1]メジロモンスニー牡457清水英次1.3/4
[3]ビンゴカンタ牡457岡部幸雄1/2




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