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馬 題字
1975年5月25日
第42回日本ダービー
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馬柱・日本ダービー

題字 カブラヤオー
 一度も抜かれたことはない
   三段加速のカブラヤオー


◎空前絶後の春四冠

 1974年にデビューしたカブラヤオーは一度も負けたことのない馬として私の記憶の中にある。そして、私が東京競馬場で見た連続37回のダービーの中でも、背筋が寒くなるほどの戦慄を覚えた唯一の馬である。

 この年は特異な年だった。中央場所ではほとんど日のあたることのなかったローカル男・菅原泰夫騎手が桜花賞、皐月賞、オークス、ダービーをすべて逃げ切ったのである。GT乱発の今と違い、シンザンがすべての大レースを制し、5冠馬と讃えられたように、4歳(現3歳)クラシックが牡3、牝2の5レース。そして古馬路線は春秋の天皇賞、有馬記念だけが大レースだった時代である。春のクラシック4鞍を独占した菅原のことを、石川喬司氏をして「空前絶後」と言わしめたのも当然のことだったのである。

◎シカンブル系の気性

 1974年11月10日の新馬戦(東京・ダート1200)は7番人気で2着。記録では負けているのだが、カブラヤオーは四角から外に逃げて、一頭だけ大外のラチ沿いを猛然と伸びて1/2差であり、内容的には勝ったダイヤモンドアイより10馬身以上余分に走るロスがあったのだ。ちなみにダイヤモンドアイは後々まで、あのカブラヤオーに勝った馬として、人気を集め続けたが、準オープン止まりだった。

 一方“負けた”カブラヤオーは2戦目の新馬から連勝街道を驀進するのである。それは、他馬を過剰に気にするため、徹底逃げの戦法に切り替えたことが奏功したと言えるが、私は6月13日生まれと、成長が遅かったことに起因すると思うのだ。キャリアを重ねるごとに遅く生まれたハンデを解消したカブラヤオーは、他馬を怖がらなくなっていたと思っている。480キロ台の馬体とシカンブル系ファラモンドの血、負けん気の強さなどから、慣れさえすれば他の馬を怖がるわけがない。たぶん、ダービーでも“無謀”と思える逃げを打たなくとも勝てたはずである。だが、「自分の競馬に徹して負けたら仕方がない」という菅原泰夫の決意がそうさせなかったと思っている。その根拠は引退2戦前の短距離S(札幌・ダート1200)では後方から猛然と追い込んで勝っているからである。

◎東京4歳Sエピソード

 2戦目の新馬、ひいらぎ賞、ジュニアC、東京4歳S、弥生賞、皐月賞、NHK杯。すべて並ばれることのない完勝だった。ひとつだけ、東京4歳Sを除けば。

 東京4歳Sのレースには関係者以外知らないエピソードがある。弟弟子の菅野澄男から菅原にバトンタッチした自厩舎のカブラヤオーと、仲住芳雄厩舎のテスコガビー(桜花賞大差、オークス8馬身差。私の見た中ではトウメイ、エアグルーヴとともに三強牝馬)。菅原のお手馬が重なったのである。菅原は依頼厩舎のテスコガビーに乗り、弟弟子にカブラヤオーを譲った。後継ぎのいない好々爺、茂木為二郎調教師は菅原泰夫を信頼し、騎乗馬については彼に任せていたから、たぶん弟弟子に乗り馬を回す、この古き良き習慣に菅原は従ったのだろう。

 それはともかく、どちらが強いか? 2頭の潜在能力を見抜いている両陣営、ごく少数の関係者には大きな関心事だった。いずれにしてもどちらかが勝つ。両馬には「直線で一旦並んでから勝負」の約束があったのである。結果はクビ差で牡のカブラヤオーに軍配が上がったが、2頭だけの、後に牡牝春二冠馬の“マッチレース”は成立したのである。後に考えれば雌雄を決する大勝負だったと思うが、このような歴史の陰に隠れた名勝負も、記憶している人は少なくなってしまった。ちなみに、菅野澄男にとって、これが生涯一度の重賞勝ちだった。

馬 ◎最強のダービー馬

 1975年5月25日。第42回ダービーはフルゲート28頭。当時はダービーに出走することは馬主にとって名誉なことだった。結果はともかく、放送で一度でも名前を叫ばれたいというのが多くの馬主の気持ちであり、スプリンターは勝負を度外視してハナに立ったのである。いわゆるテレビ馬と呼ばれた存在がこのダービーではトップジローだった。3ハロン34秒5で飛ばす。だが、菅原・カブラヤオーに迷いはない。猛然と追いかけ、競り潰してハナを奪う。実に6ハロン通過が1分11秒8。ちなみに、私が見たダービーで、これより3ハロン通過が速かったのは1度だけ。68回ダービーで最下位のテイエムサウスポーの34秒4〜1分11秒3である。6ハロン通過時点では67回のマイネルブラウの1分11秒7があるものの、やはり14着と惨敗している。

 仮柵などない時代の荒れた馬場をカブラヤオーは逃げまくる。直線半ばではさすがに止まりかける。すかさず武邦彦・ロングホークが並びかける。すると、グッとフォームが低くなり、グイと伸びて突き放す。さらに小島太・ハクチカツが背後に迫ると、再び点火する三段加速で後続を突き放してのゴールだった。

 恐るべきスピードとスタミナと負けじ魂。屈腱炎を発症することがなければ、菊花賞も楽々と逃げ切り、間違いなく3頭目の三冠馬になっていたはずである。ちなみに、このダービーには後に天皇賞を勝つ福永洋一・エリモジョージ、暮れの有馬記念を制したイシノアラシも参戦していた。

◎まとめ

 ダービー後の屈腱炎から1年の休養後、カブラヤオーはオープン(ダート1800)1着、オープン(芝1800)は最下位の11着。もっとも、これもゲートに突進して脳震盪を起して出遅れ、ただ馬場を回ってきただけの11着であり、参考外だろう。短距離S(ダート1200)1着。オープン(芝1600)1着を最後に馬場を去った。しかし、ダービー後は満足な状態に戻ることのないレースであり、これは単なる記録上の付け足しに過ぎない。

 通算成績は〔11.1.0.1〕。私の記憶の中では不敗の逃げ馬だった。裏街道のローカルで腕を磨いた一本気の職人・菅原泰夫のムチに応え、並ばれるとハミを噛んでがんばる。前へ前へ、退くことを知らない馬だった。

 内国産種牡馬には不遇の時代に、それでもミヤマポピー(エリザベス女王杯)、マイネルキャッスル(京成杯3歳S)、グランパズドリーム(ダービー2着)、ニシキノボーイ(東京王冠賞)を出している。種牡馬としては二流だったかもしれない。しかし、ダービー史上、私の記憶には燦然と輝く馬である。そして、34秒5〜1分11秒8のハイペースを逃げ切った馬として、その数字は記録として残り続けるに違いない。

 去るもの日々に疎し。やがていつか、記憶するものが絶えたとき、ただ一度として抜かれたことのない、想像を超えた逃げ馬の存在など歴史の藻屑となっていくのだろうか。スポーツ新聞の片隅に載った「2003年8月9日、二冠馬カブラヤオー死亡」の数行の記事がそれを物語っている。《敬称略》

〔梅沢 直〕

☆1975年度代表馬☆
カブラヤオー 1972.6.13生 牡・黒鹿毛
ファラモンド
1957 黒鹿毛
Sicambre Prince Bio
Sif
Rain Fair Trial
Monsoon
カブラヤ
1965 黒鹿毛
ダラノーア Sunny Boy
Danira
ミスナンバイチバン ハロウェー
スタイルパッチ
 

馬主………加藤よし子
生産牧場…新冠・十勝育成牧場
調教師……東京・茂木為二郎 → 森末之助

通算成績 13戦11勝[11.1.0.1]
主な勝ち鞍 皐月賞(1975年)
ダービー(1975年)


1975年5月25日
第42回日本ダービー 東京 芝2400m・良
[4]12カブラヤオー牡457菅原泰夫2.28.0
[3]ロングファスト牡457松田幸春1.1/4
[8]26ハーバーヤング牡457岡部幸雄1.1/2




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