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馬 題字
1968年7月7日
第35回日本ダービー
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馬柱 題字

ハンデ100キロが妥当
 初代怪物タケシバオー


◎不滅の記録を見た

 口に出して誇れるようなことじゃない。何の価値もないことだから。でも、誰にでも思い出すと心が熱くなる、自分だけの秘めた誇りがあるもんだ。

 1969年3月1日の土曜日。時間だけは持て余すほどあった。嫌いな言葉は卒業・おとな・生活・神・努力・成功・現実。何者にもなりたくなかった。エネルギーのすべてを消費し尽くし、虚脱状態で土曜、日曜は競馬場の熱気に吸い寄せられるように府中にいたのだった。

 6頭立てのつまらないレースをラチにあごを乗せて見ていた。馬券など買う気も起こらないおなじみのメンバーによるダート1700のオープン戦。予想通りタケシバオーが古山騎手に逆らい、嫌々をするように頭を上げたまま、後続をはるか彼方に置き去りにしてゴールした。タイムは1分41秒9。60キロの斤量での大差レコード勝ちだった。

 当時、仲間うちではタケシバオーは大鵬(横綱)が乗っても勝てる。ハンデは100キロが妥当だなどの冗談が出たものだが、この時計がよもや35年間も破られることなく続くとは…。

  《コース別ダート1700のレコード》
札幌1分42秒1=アルアラン(56キロ)
中京1分42秒9=ロードプリヴェイル(58キロ)
中山1分43秒1=エルフォルク(53キロ)
函館1分43秒2=シンコウスプレンダ(59キロ)
小倉1分43秒4=ゼンノマングローブ(57キロ)
福島1分43秒5=レディバラード(55キロ)
新潟1分47秒4=オリエンタルシチー(55キロ)

 ちなみに、これが現在のレコードである。芝コースは路盤や芝の研究からさまざまな改良がなされて驚くほど時計が速くなっている。しかし、ダートはそれほど変化がないことを見ても、60キロを背負ったタケシバオーの1分41秒9に、強さと速さが推し量れるのではないだろうか。

◎タケシバオーは2頭いた?

 オレはタケシバオーのレコードを出したレースを見ているんだ。このひそかな誇りが、昨年から東京ダート1700がなくなったことにより、JRAのホームページで検索したところ、タケシバオーの名前が“人為的”に消えていたのである。子供のころに最強だったベーゴマがポケットにあるときの誇らしげな気持ちに通じる、オレのタケシバオーの名前が消えてしまうなんて…。

 まあ、個人的な想いはひとまず置くとしても、とある競馬関係者の酒飲み話しで、最強馬は「シンザンでしょう。いやいや、やっぱりシンボリルドルフじゃないですか」なんて興味本位の議論があった。誰しも一番競馬に熱くなっている時代の馬が強く感じるものだが、オレが「タケシバオーだと思う」と言ったところ、同年代の優駿編集者や、競馬評論家が同時に「私もそう思う」と同意したのである。

 タケシバオーは負けた数は多いが、全盛期の強さが強烈だった。4歳(現3歳)時の逃げ粘って2着の多いレース振りなど信じられないほど、本格化後の豪脚は人々の記憶に焼き付いているようだ。

馬 ◎連戦連勝

 タケシバオーはデビュー時が460キロ。国内最後の27戦目が502キロ。その成長力は他に比類を見ない。先行していた時代ももちろん強かった。無謀な競り合いで3着になった3歳特別以外は、〔8.10.0.0〕だったのだから。しかし、先行力を瞬発力に転化してからはまさに盤石の感があった。

 本格化した5歳(現在4歳)の2月2日東京新聞杯ダート2100mをレコード。続くダート1700mオープン(60キロ)もレコード。芝2400m京都記念(62キロ)、芝1600mオープン(60キロ)、芝3200m天皇賞(58キロ)、芝1800mジュライS(65キロ)、ダート2100m毎日王冠(62キロ)、芝1200mスプリンターズS(62キロ)レコードと破竹の8連勝。すべてのレースが、よほど距離や斤量にハンデでも課さない限り負けようのないレース振りだった。

 生涯にレコード勝ち5回。ダート、重、距離、斤量…。すべてに死角のないオールマイティの馬だった。誰が名付けたか、いつしか“怪物”が代名詞となったのも当然だろう。

◎クラシック戦線

 1968年は西のマーチス、東のアサカオー、そしてタケシバオーの3頭がしのぎを削るクラシックだったが、春の時点のタケシバオーは万年2着の馬だった。

  弥生賞 スプリングS 皐月賞 NHK杯 ダービー 天皇賞
アサカオー  
タケシバオー
マーチス


 ちなみに保田隆芳騎手はマーチスの皐月賞勝ちで初の5大レース完全制覇騎手となった。タケシバオーは馬主の小畑正雄氏の熱意により、当時としては大英断だが、4歳(現3歳)と5歳(現4歳)秋にワシントンDCインターナショナルに遠征(8、7着)している。遠征のノウハウが蓄積された今なら違う結果が出ていたかもしれない。技術より、精神力だけで世界に挑んだ男たちの夢物語だったかもしれない。

 外国遠征をしていなかったら、菊花賞、有馬記念を勝ち、あと10勝は上乗せしていたに違いない。帰国後のヨレヨレのタケシバオーを知っているだけにそう思うのである。しかし、マイナーな競馬を社会に認知させようとした、先人たちの馬に賭けた情熱を笑うことはできない。無謀な挑戦こそ進歩を促す原動力だからである。

馬 ◎種牡馬実績

 種牡馬となったタケシバオーは、中央ではドウカンヤシマ(京成杯3歳、中山金杯、京都金杯、函館記念、朝日CC、東京新聞杯)、イイデセゾン(共同通信杯)、アジシバオー(日経新春杯)、ロビンソンシチー(京都記念)、カツトクシン(京都金杯、愛知杯)、トウカンタケシバ(愛知杯2度)、チェリーフット(ウインターS)、ハッピーオールトン(クイーンS)など重賞勝ち馬を9頭出したものの、クラシックとは無縁だった自身と同じように、超一流馬は残せなかった。ただ、地方ではハツシバオー(東京ダービー、東京大賞典、羽田盃、東京王冠賞)をはじめ、10頭以上の重賞勝ち馬を出しており、内国産種牡馬としては大成功したと言えるだろう。

◎馬も人も骨太だった

 タケシバオーはクラシックとは無縁だったが、国内生涯成績は〔16.10.1.0〕。荒々しい骨格の野武士を連想させる馬だった。

 生産者の榊憲治氏を30数年前に取材したことがある。朴訥な語り口の骨太な人だった。馬主の小畑正雄氏は専門紙オーナーながら調教時計を採っていた。専門紙が早刷り競争の時代に、出馬を早く送稿したいため、オーナー室の電話を使って怒鳴られた経験がある。見るからに頑固一徹な人だった。酔い潰れた主戦騎手だった古山良司氏を介抱したこともあった。戦争を潜り抜けた強靭なおとなたちの闊歩した昭和40年代。関わった関係者の思い出とともに、タケシバオーは今でもオレのポケットの最強のベーゴマなのだ。

「タケシバオーの不滅のレコード勝ちをオレは見た!」。そう思うと今でも心に熱いものが蘇るのである。

〔梅沢 直〕

☆1969年度代表馬☆
タケシバオー 1965.4.23生 牡・鹿毛
チャイナロック
1953 栃栗毛
Rockefella Hyperion
Rockfel
May Wong Rustom Pasha
Wezzan
タカツナミ
1958 黒鹿毛
ヤシママンナ プリメロ
第参マンナ
クニビキ Nice Day
Starlet
 

馬主………小畑正雄
生産牧場…新冠・榊 憲治
調教師……東京・三井末太郎

通算成績 29戦16勝[16.10.1.2]
主な勝ち鞍 朝日杯3歳S(1967年)
天皇賞・春(1969年)


1968年7月7日
第35回日本ダービー 東京 芝2400m・稍重
[1]タニノハローモア牡457宮本 悳2.31.1
[7]15タケシバオー牡457森安弘明
[3]アサカオー牡457加賀武見1.1/2




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