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馬 題字
1967年7月11日
第1回東京盃(大井)
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馬柱 ◎三種の神器
 神武景気・55年体制


 1955年(昭和30年)、庶民の夢は『電気洗濯機・電気冷蔵庫・テレビ』だった。電化はすなわち生活の向上。この“三種の神器”を手に入れるため、皆が懸命に働いた。

 まだ貧しいが、頑張る気力に満ち溢れていた時代。どん底から這い上がった日本は、ただ前に進むだけだった。世界的な経済繁栄の訪れに伴って景気が上昇。技術革新も着実に進んだ。復興・回復の時期に終わりを告げ、翌1956年(昭和31年)の経済白書には「もはや戦後ではない」と記されている。 

 沸き立つ好景気は、いつしか“神武景気”と呼ばれるようになった。記紀所伝の第1代・神武天皇。即位の紀元前660年が皇紀元年であり、この年は皇紀2615年にあたる。つまり有史以来の好況というかなり大げさな表現で、それだけで当時の活気が伝わってくる。

 神武といえば、将棋の順位戦ではC級1組で加藤一二三が快進撃。翌年に10勝3敗で連続昇級昇段を決め、以後A級までノンストップで駆け上がっている。“神武以来の天才”が、その大器ぶりを発揮していたころである。

 政界では左右に分かれていた社会党が合流して『日本社会党』が10月に再結成。保守陣営も自由党と民主党が解党して11月に『自由民主党』が発足。いわゆる“55年体制”が始まった。首相・自民党総裁は鳩山一郎、自民党幹事長は岸信介。社会党は鈴木茂三郎委員長、浅沼稲次郎書記長。“青年将校”中曽根康弘は血気盛んな37歳。その後は議席比率を変えながらも、この2大政党時代が40年間続くことになる。

 55年体制からおよそ半世紀。合流時、衆参合わせて200名を超す大所帯だった日本社会党は、今や衆院6、参院5の弱小・社民党。結党時国会議員350人の自民党も、現在は連立という政権維持装置付きの状態にある。

◎道悪巧者

馬  1952年(昭和27年)5月6日、青森の益田牧場でオートキツは誕生した。

 母・トキツカゼは牝馬ながら皐月賞を勝ったオークス馬(1947年・昭和22年)。当時のオークスは秋の開催だった。6月に行なわれたダービーではマツミドリにアタマ差の2着。戦後最強の牝馬と目されていた。

 父・月友の父はアメリカの至宝・マンノウォー。マッチレースで驚異の100馬身差勝ちなど、“ビッグレッド”と恐れられた偉大な栗毛馬である。1920年(大正9年)のプリークネスS、ベルモントSを楽勝。史上初めてアメリカで20万ドルを超す賞金を稼ぎ出し、21戦20勝の戦歴を誇った。

 現在公開中(2004年2月現在)の映画『シービスケット』の敵役として登場するウォーアドミラル(アメリカ4頭目の三冠馬)は、そのマンノウォーの代表産駒。シービスケットの父・ハードタックもマンノウォー産駒で、一騎打ちを演じる両馬は同じ父系ということになる。

 史上に残る名馬の仔である月友は、未出走のまま種牡馬となったが期待は大きかった。それに応えるように、カイソウ(1944年・昭和19年)、ミハルオー(1948年・昭和23年)と2頭のダービー馬を送り出し、母の父としても成功を収めていた。

 トキツカゼでダービーを取り損ねた馬主・川口鷲太郎、調教師・大久保房松にとって、オートキツほど雪辱を期すのにふさわしい馬はいなかった。「必ずダービーを獲る」。両者は固く誓った。

 ダービーまでは10戦4勝。朝日盃(現・朝日杯フューチュリティS)7着、皐月賞は10着。直前のNHK盃(後のダービートライアル・NHK杯)でも8着に沈んでいた。重賞未勝利の身で迎えたダービー当日、24頭立ての10番人気だったのは仕方ない。

 しかし、終日降り続く雨に陣営は勇気づけられた。前々走のオープン戦は不良馬場で何と4秒差の圧勝。後続を20馬身以上突き離し、祖父・マンノウォーばりの強さを示していた。

 道悪巧者にとって、絶え間ない雨音は福音だった。スタンドからは、泥をかぶった中団以降の馬が確認できないほどの極悪馬場。オートキツは、まさに水を得た魚となった。二本柳俊夫騎手が好判断でハナを切り、気がつけば後ろは離される一方の8馬身差。食い下がろうとした皐月賞馬のケゴンをハナ差交わして、2着にはカミサカエが入った。

 確かに、あれほど雨が降らなければ、結果は違っていたかもしれない。だが、勝ちタイムは2分36秒3は翌年のハクチカラ(重馬場)とわずか0.2秒差。同じく不良になった4年後のコマツヒカリより2秒近く速く、決してレベルは低くなかった。潜在能力の高さが、得意の馬場で発揮されたと見るべきだろう。

 秋の菊花賞はメイヂヒカリの前に屈したものの、2着は確保。サラブレットの頂点であるダービーをセントライト(1941年・昭和16年)と並ぶ最大馬身差で制した功績は高く評価され、1955年の年度代表馬に選出された。

馬 ◎“東京盃”親子制覇

 翌1956年4月15日のダイヤモンドSを勝って重賞2勝目(左写真)。そして5月13日、1番人気・63キロで「第6回東京盃」を勝ったのが現役最後となった。当初はもっと使う予定で、陣営はまだ引退するつもりはなかったが、脚部不安には勝てなかった。
 競馬会に買い上げられ、軽種馬協会の種牡馬になったオートキツは、1957年(昭和32年)から鹿児島で供用された。初年度は36頭、以後16〜38頭に種付けして、10〜20頭の産駒を送り出したが、目立つ活躍馬を出せずにいた。九州はサラブレッドよりアラブの生産が盛んで、繁殖牝馬に恵まれなかった。

 熊本に移り、種付け頭数がひと桁に落ちた1967年(昭和42年)、南関東・大井に8歳(現表記7歳)の栗毛産駒がいた。クニノオーの名で中央で10勝を挙げ、現在でいう準オープン格まで出世したが、1965年(昭和40年)6月4日、地方に転出した。オートキング、さらにアオイライコーと名を変えて雌伏2年、ようやく頭角を現したのが第12回大井記念(1967年・6月15日)だった。ハロータイム、ロイヤルナイトらの人気馬を尻目に、2400Mを堂々逃げ切り勝ち。単勝は8番人気で2120円だった。中央と地方の違いはあっても初重賞が父と同様に雨の中、しかも距離がダービーと同じなのは何かの縁だろう。

 今回ご覧いただく紙面は、そのアオイライコー(母・サツマクイン、母の父・ツバサ)が大井記念を勝った直後の「第1回東京盃」である。印ほどの拮抗した人気ではなく、この年の川崎記念馬・ハロータイム、当時の花形・佐々木竹見騎乗のダートライトに次いで支持は3番目だったが、中団から直線で伸びて重賞連覇を果たした。単勝530円、連複5−7は3770円の好配当になった。

 南関東の東京盃は今日も大井の名物重賞で、父・オートキツが勝った中央の東京盃は現在の東京新聞杯。同じ“東京盃”でも、もちろん別のレースである。

 オートキツの仔で最も有名なのはキングスピード(母・クインダービー、母の父・フルブルーム)だろう。1969年(昭和44年)の京都盃。アカネテンリュウ、ミノル、ダイシンボルガードらを従えて2000Mを逃げ切り、これが唯一の産駒中央重賞勝ちとなった。12頭立ての最低人気で単勝は6590円の大穴。重馬場で9馬身差は、父を彷彿させるパフォーマンスだった。

 この活躍により、再び種付け頭数が増え、翌1970年(昭和45年)からは4年連続で種付け頭数が20頭を超えた。父はマンノウォー直系、クラシックに強い母系を背景にしながら成功したとはいえなかったが、寿命が尽きる1976年(昭和51年)まで、オートキツは20年に及ぶ種牡馬生活を全うしている。

〔田所直喜〕

☆1955年度代表馬☆
オートキツ 1952.5.6生 牡・栃栗毛
月友
1932 栗毛
Man o'War Fair Play
Mahubah
星友 Sir Martin
Colna
トキツカゼ
1944 鹿毛
プリメロ Blandford
Athasi
第五マンナ シアンモア
マンナ
 

馬主………川口鷲太郎
生産牧場…青森・益田牧場
調教師……中山・大久保房松

通算成績 22戦14勝[14.2.1.5]
主な勝ち鞍 ダービー(1955年)


1967年7月11日
第1回東京盃  大井 ダート1200m・良
[5]アオイライコー牡859渥美忠男1.12.5
[7]タカサゴオー牡855須田 茂クビ
[7]フミヒロ牝655佐々木吉郷




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